現在の日本では、大学受験など将来に備えて高校生のときに文系・理系にコース分けされますが、多くの学生が、自分の適性を正しく把握できておらず、将来に悔いを残すことも少なくありません。高校で進路を決める際に重視されるのが数学の成績であり、数学が苦手な人は文系、得意な人は理系と割り振られる傾向にあります。しかし、文系であっても、経済学では確率微分方程式のような高等数学が用いられますし、生物学のようにあまり数式を用いない理系科目もあります。数学の得手不得手は、必ずしも文系・理系の適性を決定するわけではありません。 私の考えでは、文系と理系を隔てる最も大きな差異は、世界中に緊密に張り巡らされたロジックのネットワークを実感できるかどうかだと思います。理系で扱う対象は、通常、異なる地平からのアプローチが可能であり、複数の学問の間でデータの交換が行われています。例えば、ある動物が摂取した食物がどのように代謝されるかを考える場合、動物行動学から量子化学に至るさまざまな研究方法があり、特定の分子構造が環境への適応度を左右する因子として棲み分け理論に援用されたりします。このように、複数の学問の相互乗り入れが可能になっているのは、自然のあらゆる現象が、孤立して自存することなく、法則によって互いに深く関連しているからです。理系の学者は、学問的方法論を駆使して、さまざまな方向から法則というロジックの網目を辿っていくことにより、自然の謎を解き明かそうとしているのです。 これに対して、文系の学問では、学問の相互乗り入れはあまりないように見受けられます。もちろん、マクロ経済学の研究に、経済行為の担い手である投資家や消費者に関する心理学的な分析が盛り込まれるといったケースもあるでしょうが、一般に、ある研究対象に関して1つのジャンルが成立していると言えそうです。文系の対象も自然現象の一部なので、根底にはロジックのネットワークがあるはずですが、人間が介在することによって法則性が見えにくくなっているため、どうしても(景気動向のような)対象の性質を抽象的に表す概念を用いざるを得ません。こうして、ジャンルごとに独自の学問的概念が多用されるようになり、ますます、学問間の交流は困難になっていきます。 理系的な発想の1つに、「わからなくなったときには先に進め」というのがあります。実際、勉強している途中で難しくてわかりにくい箇所に出会ったときには、そこでいつまでも悩んでいないで、先のページに進む方が、結果的に早く理解できることが少なくありません。これは、ロジックのネットワークをある方向から辿って行き詰まったとしても、常に別の方向からのアプローチが可能であり、先のページにその説明が記されていることがあるためです。方程式を見ただけではわからないことも、具体的な応用例で示されれば腑に落ちるというものです。このほか、「空白はロジックで埋められる」というのもあります。私自身、論文を読む際には、前半の1/3程度にしか目を通さない場合が多く、各段落の最初の文章だけを飛び飛びに読んでいくこともあります。データの種類と方法論さえわかっていれば、内容が予想できるからです。一般的に言って、理系の人間は理詰めでものを考えますが、1つの信念に従って直線的に思考するのではなく、さまざまな方向から理詰めのアプローチを試みる特性があるようです。
おそらく、文系の人間には、「ロジックで空白を埋める」という発想は皆無でしょう。ロジックの重要性は認めるにしても、一歩一歩着実に学説を組み上げていく際に用いるものであって、多面的・多層的にロジックを使い回すことはないはずです。ロジックで埋められない部分は、全体を見渡す総合的な視座から説明を加えていくのが、文系的なやり方と言えるでしょう。
こうした意見は、私が理系人間だけにかなり偏っているかもしれませんが、一つの見方として受け取ってください
質問集: 人によって、文系・理系の向き不向きがあるんでしょうか?
後半の「空白をロジックで埋める」というのは、私と妻の読書スタイルの差にすごく良く当てはまる。
(via raurublock)
「うさぎドロップ」は想像力を刺激する。これまでは、これが一体のものと考えたから、考えが詰まってしまったのではないか。原作を読まなかったものの特権として、いろいろのことを想像して見ることができる。
たとえば、うさぎの形をしたドロップでは、うさぎの形が重要なのか、それとも、ドロップの甘さが重要なのか、と考えることも可能だろう。
最初が肝心である。人間関係は出逢いによって、始まるから、このときになんらかの同意の存在が必要となってくるだろう。この物語の出逢いは、一人の死ということであるが、それが通常は、近づけるだけの必然性が必要となるのであるが、それがここではかなり希薄であるのだ。これは意図したものであるというところが現代的だということだろう。
代理性の必要条件は、親しく近しい関係よりも、すこし他人的であり疎遠な関係のほうが、成立し易いという特性を持っているという点にある。このような認識は、現代において出てきた関係であって、すこしまえまでは、このような描き方は行わなかったのではないかと思われる。
過剰が良い方向で出ているシーンもあって、りんを引き受けたのち、行き詰まったときに、女性雑誌のヒロインと踊る場面を夢想するシーンがあって、これはかなり映画的で飛んでいる。このような場面の転回がこの映画には必要であって、連続性を強調する泣きの場面は、全くいただけない。